収容所

オーストラリア国内の日本人戦争捕虜及び民間人抑留者収容所

第二次世界大戦中、オーストラリアには全部で18の収容所が設立された。そのうち5カ所に日本人捕虜と民間人抑留者が収容された。戦争捕虜はニューサウスウェールズ州のヘイとカウラ、ビクトリア州のマーチソンに収容され、民間人抑留者は南オーストラリア州のラブデーとビクトリア州のタツラに収容された。このほかにも移送中に仮収容所が一時滞在に使われた。詳細は下記の表を参照。

収容所名 町名 収容能力 備考
ゲイソーン クイーンズランド ゲイソーン 1800 戦争捕虜が収容所へ送られる前に使われた尋問所。
カウラ (No. 12) ニュー・サウス・ウェールズ カウラ 4000 1944年8月に脱走事件が発生。
ヘイ (No. 6) ニューサウスウエールズ ヘイ 1000 1943年4月までは単身男性の民間人抑留者を収容。その後は再編成によりPWJMを収容。
ヘイ(No.7, No. 8) ニューサウスウェールズ ヘイ 3000 戦争捕虜を収容。
リバプール ニューサウスウェールズ リバプール 500 戦争捕虜と民間人抑留者を移送中に仮収容所として使われた。
タツラ

(No 4)

ビクトリア タツラ 1000 民間人抑留者のうち、女性や家族組を収容。
マーチソン (No 13) ビクトリア マーチソン 4000 戦争捕虜の将校と下士官を収容。
ラブデー

(No 14)

南オーストラリア バーメラ 4000 民間人抑留者のうち、単身男性を収容。
ハービー

(No 11)

西オーストラリア ハービー 500 民間人抑留者を移送中に仮収容所として使われた。

 

オーストラリア政府は捕虜や民間人抑留者の収容所の運営をジュネーブ協定(1929年)の戦争捕虜取り扱い規定に則って行ったため、生活必需品は十分に支給された。抑留者の場合、収容所内の運営は自身の自治運営に任される部分が多く、収容所側は干渉せず傍観した。

オーストラリア地図

出典:鎌田真弓編『日本とオーストラリアの太平洋戦争』(2012年)p. vの地図より作成

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