民間人抑留者

第二次世界大戦中のオーストラリアにおける日本人抑留

1935年の時点で、日本国外には114万6462人の日本人及び日本人を祖先に持つ人々が居住していた。第二次世界大戦中に連合国も枢軸国も、敵国の国民を国家安全の名目で抑留した。太平洋戦争開戦前には、日本人移民コミュニティがアジア太平洋地域広域にしっかりと根を下ろしていた。ヨーロッパでの戦争が1939年に始まると、オーストラリアはまずドイツ人を、そしてイタリア人を抑留した。ドイツ人とイタリア人の抑留は原則として選別的であったが、日本が1941年12月8日に参戦すると、オーストラリア在住の日本人のほぼ全員が24時間以内に拘束された。この迅速で徹底的な日本人抑留は、日本の参戦に伴う保安への影響に加えて、アジア諸国がオーストラリアに脅威をもたらすと長年信じられていたからであった。オーストラリアに帰化した人々やオーストラリアで生まれた子供たち、そして日本人の妻を含めて1141名が抑留された。

海外からオーストラリアに移送された抑留者たち

オーストラリアは開戦前の準備計画の一環として、他国政府から多種の出自の民間人抑留者を受け入れることに同意していた。戦争中、抑留のためにその国々から総数7877名の敵国人がオーストラリアに送られた。オーストラリア国内で拘束された日本人に加えて、3160名の日本人が近隣の国々から移送されて合流した。その内訳は、蘭領東インド(現在のインドネシア)から1949名、ニューカレドニアから1124名、ニュージーランドから50名、ニューヘブリデスから34名、ソロモン島から3名である。

台湾人抑留者

日本人として抑留された人々の出自は実際は様々だった。蘭領東インド政府は約500名の台湾出身の成年男女と子供たちに加えて朝鮮半島出身者(人数不明)を抑留した。台湾は1895年以来、朝鮮は1910年以来日本の統治下にあったため、日本国民とみなされたのである。日本による同化政策によって、台湾と朝鮮の人びとは日本国民としての役割と責任を受け入れるようにと教えられた。台湾の人々は中国名を使うことができたが、朝鮮の人びとは日本名を名乗るように強制された。そのため、朝鮮出身の抑留者と日本人抑留者を区別するのは容易ではない。

抑留者の移動

オーストラリア国内で逮捕された日本人抑留者たちは、まず地元の留置所に仮収容されたのち、陸路あるいは海路で収容所に送られた。日本人抑留者は3つのグループに分けられた。単身男性たちは南オーストラリア州のラブデー収容所とニューサウスウェールズ州のヘイ収容所に送られた一方、女性や家族はビクトリア州のタツラ収容所に収容された。ほとんどの抑留者たちは、1942年3月末までに定められた収容所に到着していた。収容所の人口は、抑留者が最初の12ヵ月間に移動したため変動した。1942年8月に、第一次民間人抑留者交換が日本と実施され、外交官34名を含む867名がオーストラリアを離れた。第二次交換が計画されたが実現しなかった。

収容所での生活

抑留者たちは次第に、収容所の日常生活のリズムに慣れていった。抑留者たちの処遇はジュネーブ条約(1929年)に則ったものであった。収容所は自らが選んだ抑留者委員会によって運営され、抑留者の多くは、1日当たり1シリングの報酬で自主的に労働に参加した。ラブデーでは、体力がある男たちは薪割り作業に参加し、他は菜園や養鶏場で働いた。タツラでは多くの女たちが縫製工場に雇われた。しかし、ヘイ収容所では、民間人抑留者から準戦争捕虜への再分類に対する抗議として、労働参加率は他の二つの収容所と比べるとずっと低かった。どの収容所でもスポーツ競技やコンサートが催された。タツラでは学校が設立され、子供たちは日本語や歴史や文化を学んだ。医療が必要な抑留者たちは、収容所内の病院か地元の一般病院で治療を受けた。抑留中に193名が病気や高齢のため、死亡した。抑留生活に馴染むことができず、自死した者も何人かいる。戦時中、収容所で亡くなった民間人には台湾出身者11名と朝鮮出身者1名が含まれる。

本国送還

戦争中に、少数の日本人がオーストラリア社会へと解放されたが、戦争終了時のオーストラリアには、台湾と朝鮮出身者を含めてまだ3268名が日本人として抑留されていた。本人がオーストラリア生まれや、家族がオーストラリア生まれである者は残留することが許されたが、これに該当したのは141名のみであった。残りの人びとは、1946年の2月と3月に引き揚げ船でオーストラリアを離れた。

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