ダーウィン空襲と日本人飛行士

太平洋戦争開戦以前、ダーウィンはオーストラリア北部の熱帯僻地の駐屯地にすぎないとみなされていた。オーストラリアの北方への防衛体制は存在していたが、1941年12月に日本が参戦すると、それは不十分であると認識された。ダーウィンは連合軍の重要な海軍基地になると考えられ、すでに駐屯していた数千人のオーストラリア軍兵士に加えて、3000名のアメリカ軍兵士が1942年1月に到着した。一方、日本軍はチモール島への侵攻やニューギニアや周辺の島々で作戦を展開するためには、連合軍によるダーウィンの基地強化は望ましくなかった。

第1回のダーウィン空襲は、1942年2月19日にゼロ戦37機を含む、188機の攻撃によって始まった。この攻撃で250名以上が死亡し、約400名が負傷した。空襲は1943年11月まで続き、全部で64回に達した。

この間、多くの日本軍飛行機が連合軍の攻撃や機材の故障などで墜落した。地上に日本軍機が墜落した場合、墜落現場にオーストラリア軍が調査と乗員の遺体回収のために派遣された。遺体はまず墜落場所近くに仮埋葬され、その後ダーウィンのベリマー戦争墓地に氏名不明の日本人飛行士として改葬された。1964年にカウラ日本人戦争墓地が設立されると、すべての墓はベリマーからカウラに移された。その後の調査によって一部の飛行士の身元が確認され、墓碑にその名前が記載されている。