カウラ日本人戦争墓地の歴史

太平洋戦争中、数多くの日本人が、オーストラリア国内で戦争捕虜あるいは民間人抑留者として拘束された。戦争初期は少数だった戦争捕虜は次第に増加し、1945年には5000人を超えた。民間人抑留者の数も最大で約4000人を超え、オーストラリア国内居住者と、蘭領東インド(現在のインドネシア)、ニューカレドニア、ニュージーランドなどのオーストラリア国外から移送された人々で構成された。捕虜と抑留者のうち500人以上が、1946年に解放されるまでにオーストラリア国内で死亡した。捕虜の場合は、1944年8月に発生したカウラ脱走での234名(事件直後の死亡者231名に加えて事件での負傷が原因で死亡した3名)の死亡者が一番多いが、他の捕虜と抑留者たちの死因のほとんどは高齢や病気だった。死亡者は収容所近くの公営墓地に埋葬された。1942年と1943年に、ダーウィン周辺に日本軍機が数機墜落したが、搭乗していた飛行士の遺体は墜落現場から回収されて、ダーウィンのベリマー墓地に埋葬された。

1950年代になると、戦時中に亡くなった日本人の墓をどうするかが日豪両政府にとっての課題となった。日本国大使館は日本人の墓の調査を1955年に実施し、遺骨を日本に送還する可能性を探った。1959年に、遺骨送還ではなく、オーストラリアに戦争墓地を設置することが決定され、1962年9月にカウラがその設置場所として選ばれた。

カウラの人々と日本人との出会いは、1943年に、カウラ捕虜収容所に日本人戦争捕虜を収容したことで始まった。1944年8月の集団脱走事件は住民に恐怖を与えたが、戦後になって退役軍人会メンバーが日本人墓地の手入れを自主的にしたことは、地元住民の寛大さを体現していた。日本国大使館がカウラに墓地を設置しようと提言した際に、カウラの人々は受け入れに積極的だった。

オーストラリア戦争墓地に隣接する土地が日本人戦争墓地として選ばれ、日本政府はオーストラリア政府よりこの土地の永久借地権を得た。墓地の入り口と慰霊空間は、当時メルボルン大学教員だった由良滋が設計した。オーストラリア各地からすべての日本人墓がカウラに改葬された後、1964年11月22日に墓地開所式が催された。

カウラ日本人戦争墓地に埋葬されている人々の慰霊祭は、毎年8月に定期的に墓地で開催されている。金属製墓碑には、それぞれ氏名(ローマ字)と死亡年月日が刻まれ、享年が記されている場合もある。しかし、例外的な場合を除いて、墓に眠っている人々の経歴や死亡原因はほとんど知られていない。

本データベースが故郷や家族から遠く離れて、カウラで永眠している人々の知られざるストーリーに光をあてる手立てとなることを願っている。

カウラの地図PDF