戦争捕虜

日本人戦争捕虜の移動

連合軍と日本軍は太平洋南西地域で広範囲にわたって戦った。オーストラリア軍と日本軍の直接対戦は、日本軍がニューブリテン島ラバウルを攻撃した1942年1月に始まった。その後戦闘はココダトラック(ポートモレスビー侵攻作戦)やヒューオン半島などニューギニア本島に移った。1943年中頃より、アメリカ軍はオーストラリア軍の支援を受けて、ニューギニア北部海岸線をフィリピンを目指して西へと進んでいった。日本軍は激しい戦闘で多くの死傷者を出したうえに、補給ルートが遮断されて食料品や医薬品が不足し、深刻な結果をもたらした。数多くの兵士が病気や飢えで死亡したのである。絶望的な状況でも降伏を選ぶことはできず、多くの日本兵が死ぬまで戦うことを選んだ。捕らわれた時には、ほとんどの捕虜たちの健康状態は極端に悪かった。

日本人戦争捕虜は、オーストラリア軍あるいはアメリカ軍によってニューギニアと周辺の島々で捕らえられ、オーストラリア国内の捕虜収容所に移送された。彼らはポートモレスビーを経由して、オーストラリア本土に送られ、まず最初にブリズベン郊外のゲイソーン収容所で、身元と作戦情報に関しての尋問を受けた。戦争初期は日本人捕虜の数は少なかった。1942年には30人のみで、民間人抑留者と共にニューサウスウェールズ州ヘイ収容所に収容されていた。1943年1月に、カウラ捕虜収容所内に1000人収容の日本人キャンプが開所された。1944年8月に脱走事件が発生した時点では、1100名の日本人捕虜が収容されていた。脱走事件後、生き残った捕虜880名はヘイ収容所に移送され、将校と下士官の一部はビクトリア州マーチソン収容所に移動した。日本人捕虜の数は1944年から1945年に急激に増加し、1944年には4322人になり、1945年には5569人であった。

台湾人戦争捕虜

カウラ日本人戦争墓地には14基の台湾人戦争捕虜の墓がある。彼らが日本人墓地に埋葬されている理由は、死亡時に日本人として扱われたからである。全員が軍属で、日本軍の部隊のために運搬や建造作業をする労働者だった。彼らは軍の庸人(被雇用者)として部隊と共に前線に送られた。台湾人軍属は戦争捕虜として扱われたが、他の日本人捕虜とは分離してカウラ収容所内に収容された。

本国送還

戦争終了後、戦争捕虜たちは1946年2月と3月に復員船で日本に送還された。