カウラ脱走事件

1941年6月、北アフリカ方面から移送されたイタリア人戦争捕虜と、インドネシア人政治活動家とその家族を収容するために、カウラに第12捕虜収容所が開設された。日本人キャンプ(収容能力1000人)は1943年1月に開所し、その後捕虜数が次第に増加して、1944年7月には1100人に達した。収容所の過密と、捕虜間や捕虜と監視側の摩擦の高まりを回避するため、オーストラリア当局は下士官と兵を分離して、兵たちをヘイ収容所に移動させることを決定した。この決定は1944年8月4日に日本人捕虜たちに通知された。

「捕虜になるのは恥である」という日本軍の教えは、日本人兵たちの心に1930年代ごろから刻みこまれていた。1941年1月に、当時の陸軍大臣で後に首相になる東条英機は戦陣訓を発表し、そこには次のように書かれている。

恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

オーストラリア当局はジュネーブ条約(1929年)を順守したため、捕虜たちは収容所での日常生活には不満はなかった。それにもかかわらず、多くはその状況に甘んじてはいけないと感じていた。人員分離の通知が、捕虜たちの行動の引き金となったようで、結果的に脱走が発生した。脱走を実行するべきかどうかの投票では、賛成票が大多数の結果となった。

1944年8月5日の未明、突撃ラッパとともに脱走が始まった。宿舎に火が放たれ、大勢が収容所を囲む鉄条網柵に向かって殺到した。オーストラリア人監視兵は銃撃で対抗し、多くの捕虜が射殺された。収容所外に逃れた捕虜は、その後捕らえられて連れ戻された。この事件の結果、4名のオーストラリア兵と234名の日本人捕虜が死亡した。死亡した捕虜はオーストラリア戦争墓地に隣接した場所に埋葬された。生き残った捕虜たちはヘイ収容所とマーチソン収容所に移送された後、1946月2月と3月に日本に送還された。